あれは、夏の蒸し暑い夜のことでした。一人暮らしの静寂を破ったのは、壁を這う黒い光沢。そう、ゴキブリです。私は絶叫し、近くにあった雑誌を手に取り、無我夢中で叩きつけました。幸いにも一撃で仕留めることができましたが、問題はその後の処理です。潰れた虫の姿を直視することも、ゴミ箱に捨てることもできず、私の頭に浮かんだのは「トイレに流してしまおう」という安易な考えでした。トイレットペーパーで何重にも包み、震える手で便器に入れ、勢いよく水を流しました。渦を巻く水と共に視界から消えていく黒い塊を見て、私は心底ほっとしたのです。これで全て終わった、と。しかし、本当の恐怖はそこから始まりました。その夜、ベッドに入っても全く眠れません。トイレの排水管の中で、あのゴキブリが生き返っているのではないか。もし、配管をよじ登ってきて、寝ている間にトイレから出てきたらどうしよう。そんな妄想が頭から離れず、トイレのドアが気になって仕方がないのです。それからというもの、私の生活は一変しました。夜中にトイレに行くのが怖くなり、毎回ドアをノックしてから入るという奇妙な癖がつきました。便器の蓋は常に閉めておかないと落ち着かず、水を流すたびに、何か黒いものが逆流してこないかと水面を凝視してしまいます。あの時流したのは本当に一匹だけだったのか、実は卵を持っていて、今頃うちのアパートの配管内で大量発生しているのではないか。考えれば考えるほど不安は募り、精神的にすっかり参ってしまいました。ゴキブリを一体流しただけで、我が家が呪われた家のように感じられたのです。結局、私は専門の駆除業者に依頼し、家全体の点検と予防措置をしてもらうことになりました。もちろん、配管からゴキブリが出てくることはありませんでしたが、業者の人に「トイレに流すのは一番やっちゃいけないことですよ」と優しく諭された時は、本当に自分の愚かさが恥ずかしくなりました。あの一瞬の安易な判断が、これほどの精神的苦痛と余計な出費に繋がるとは。今でも、ゴキブリをトイレに流したあの日の自分の行動を、心から後悔しています。
あの日ゴキブリをトイレに流した私を殴りたい